1.2 強迫的な3種類の態度
(1)強迫性の成り立ち
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心理障害の基本的な特徴に「強迫性」というものがあります。
強迫というのは、自分でも何でそうするのか良く分からないのに、そうせずにいられない、というものです。
強迫性が目立つ症状として、強迫神経症というのがあります。何度も何時間も手を洗わなければ気が済まない、といった手洗い強迫や、何10回も玄関の鍵が閉まっているのを確認する確認強迫などが代表です。
強迫神経症とは呼ばれないが、広範な心理障害の背景となる、対人的な強迫的態度というのもあります。
この後に説明するように3つの方向性があります。
追従方向としては、相手に気にいられようとする、断れない、自動的なあいそ笑いなど。
攻撃方向としては、強がり、高飛車な態度、相手をバカにする態度を自動的にしてしまう。
離反方向としては、硬く口を閉ざし硬直する、自分の中に閉じこもる、無気力になる、等々。
強迫性の成り立ち
強迫性の成り立ちには、2つの要素があります。
1)まず、そうせずいられないという強制力が生まれるのは、その裏に不安や恐怖があるからです。
自由な心で自発的にそうするのでなく、危険を回避するためなので、そうせざるを得ない切迫があります。
2)もう一つの要素は、その不安の正体が分からないということです。
正体が分からないから、合理的に対処する方法も分からず、一度それを軽くした行動を儀式のように繰り返すだけになってしまいます。
正体の分からない不安や恐怖が起きるのは、それを引き起こした原因となる心理状態が、「感情の切り離し」によって意識から遠ざけられているからです。
これを幼児期の基本的不安との関係で説明します。
基本的不安による強迫性の発生
基本的不安は他人一般に対する、怒り、不信、無力感を含んだ複雑な感情です。
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その一方で、子供はあい変わらず、基本的な愛情への要求の中におり、そして実際の生活上での庇護を必要とする状況で起きていることを考える必要があります。
つまり、その基本的不安の感情をそのまま抱いたままでは、子供は生きていけない、ということです。
そしてまさにこの心理が、子供自身が納得できない状況で起きたことにおいて、子供はこの感情を納得できる形で克服することはできません。
その代わりに、自我が未熟なこの段階での安全弁のような機能として、「感情の切り離し」が働きます。
子供本人の意識においては、比較的経度な状況では、これは正しい事態ではない、何かが間違っているという漠然とした不満に、いつしか慣れる形になります。
より問題が深刻になるにつれて、「これは自分ではない」といった感覚が生じたり、意識から強制的に嫌な感情が抹殺されるという形を取ります。
これは脳科学の観点からは、人間の感情というものが脳の1点ではなく多数の脳神経でつかさどられることに由来するでしょう。
それぞれの脳神経が別々の感情を感じることができ、相互に抑制や合成もあるということです。
子供の段階では、まだ1個の人格としての独立への要請は少ないので、主に外界に合わせる形で感情を切り替える、都合の悪い感情は切り離すという方法が取られます。
それによって心理的ダメージの大きな恐怖感などを意識から遠ざけて平衡を保つという方法です。
問題は、このように「納得する形で」吸収消化されたのでない不安は恐怖は、心の中で消えずに残っているということです。
切り離した恐怖がそのまま消えていくのであれば、人は心理障害というものにはならなかったでしょう。
感情の切り離しは、不完全な不安解消法だったということです。
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不完全に意識から遠ざけられた不安や恐怖は、しばしば悪夢や夜驚(やきょう)となって子供には現われます。
感情の切り離しをする場合、感情そのものだけでなく、それを起こした状況に関する記憶を意識から切り離すことを多分に含みます。
このため、不安や恐怖を起こした状況の記憶がしばしば薄れる現象が起きます。
基本的不安のような、幼児期の広範囲な生活状況に根ざす不安の場合、軽度なものであっても、何で自分がそのようになったのか、最初の原因は大抵思い出せません。
比較的重い人格障害においては、子供の頃の記憶全般がない、と言った事例を良く見かけます。
このように感情の切り離しによって不完全に抑圧された恐怖や不安は、生活の様々な場面で、漏れ出すように意識の表面に現われます。
その大元となった状況や感情はあくまで過去の記憶でしかありませんが、不安や恐怖は現在の差し迫った危険を知らせる信号であるため、これだけは逃れようがないということでしょう。
この結果、意識の上では原因や意味の分からない不安や恐怖が起きるという現象になります。
本人にも意味は分からないまま、元の状況と何か関連のある状況にしばしば結びついて現われます。
このメカニズムの、不安や恐怖に着目した場合、それが不安障害とか不安神経症と呼ばれます。広場恐怖とか閉所恐怖など。
不安をまぎらわすための儀式的な行動の繰り返しに着目した場合、強迫障害とか強迫神経症と呼ばれます。
仕組は同じものです。
「症状」それとも「性格」としての強迫性
心理障害における強迫現象には、次に説明する強迫的な追従態度・攻撃態度・離反態度のように、人の性格としての意味が比較的明瞭なものと、手洗い強迫や確認強迫のように意味が不明瞭なものがあります。
意味が明瞭なものは、その人の人格に深く根ざした問題であることが予想され、精神分析的なアプローチに合いやすい問題です。比較的長期の取り組みになります。
ただし、意味があるだけに、一般には「性格の問題」として扱われ「障害」としては扱われません。
これに取り組むかどうかは本人の意識いかんです。
一方、意味が不明瞭なものは、とにかく徐々に普通の行動に慣らしていくという行動療法なアプローチに合いやすい問題です。基本的に短期の取り組みです。
意味がないからこそ障害として「診断」され、治療の対象として目を引きます。
強迫障害や不安障害を持つ方が、目を引く症状に隠れて、性格や人格の全体に問題が感じられるケースが非常に多くあります。
人格全体としては健康であるのにも関わらず、特定の心理障害だけ現われるケースはむしろ稀であり、私自身の知る範囲では今だかつてありません。
もちろん、「人格の健康」をどう見るかという目によって、これをどう考えるかは変わってきます。
ひとことで言うと、人生における喜びや良好な人間関係を全般的に損ない、仕事などでストレスがある、つまりは自分の心のあり方が全般的に自らを幸福から遠ざけているという状態です。
本人の人生にとっては、むしろこちらの方が重大な問題でしょう。
そして精神分析的アプローチで、根本的に人格の改善成長を達成する過程では、障害症状がごく表面的な派生物に過ぎなったことがしばしば分かります。
人格全体に取り組む中で、個々の障害も自然に消えていく形になります。
このため、これからの説明では、人格全体における心理障害メカニズムに着目して、その流れを見ていきます。
2003.7.7
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